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竜の血脈(19)




 ほどなくしてシリルの食欲が落ち、ほとんどものを食べられなくなった。それは自然な出来事であり、気分の悪さを隠しながらも彼女は嬉しそうに微笑んでみせた。
 サンジは予想していたこととはいえ、湧き上がるような喜びが自分にないことに当惑した。新しい命の芽生えは、ラティエスの卵の孵化のときには毎回震えが来るような感動を得るものなのに。
(俺は人の親として何か欠けているんだろうか。やっぱり俺自身、親の記憶がないから──)
(何ヲボケタコト考エテルノ。自分デ産ム訳デハナイカラ、ソレホド実感ガナイダケデショ。青銅竜ダッテ、卵ニ執着スルモノデハナイワ。単純ニ雄ト雌ノ差ヨ。産マレテ顔ヲ見タライヤッテホド実感スルデショウヨ)
 沈んでいるサンジの心にラティエスが無遠慮に割り込んで来る。彼女こそそろそろ産み月に掛かってきている。なんとかまだ飛べるが、それももう限界に近い。もう少ししたら岩室と餌場の往復くらいしかできなくなる。そして時が満ちたら地熱で暖まった孵化場の砂の上でゆっくりひとつづつ卵を産み落としてゆくのだ。
(そうかもね、お嬢さん。君はもう産むことにかけては大先輩だ。ヒトと竜とはいろいろ違うけれど、命を生み出すということは同じだし)
(ソウヨ。コレハさんじニハ出来ナイコト。ダケド、私ガ代ワリニヤッテアゲル。私ハアナタノ伴侶ナノダカラ。ソウイウ伴侶ダッテイイデショ? ナニモカモ一緒でアルノガ伴侶ジャナイデショ? 互いを補イアッテコソ伴侶ッテイウノジャナイノ?)
(降参。まったく君の言うとおりだよ。俺は逆立ちしようが何をしようが子供を産むことはできないから、全部君に任せるよ。俺の分、君がたくさん産んでくれ)
(エエ、卵ノ中ニ次ノ世代ヘノ全テノモノヲ詰メ込ムワ)
「次の世代か…」
 思わずサンジは声に出して呟く。自分たちの次の世代。毎日、糸と戦って、竜と大厳洞の暮らしを守って、そうやって明日は今日の続きで同じような一日がまた繰り返していきながら、すこしづつ、すこしづつ人も竜も命を増やし、そうやって繋がってみんな生きてゆく。
 俺もゾロも、そういう意味で次の世代に何かを残すことができるのだろうか。血筋を残してそれで是とされるのなら、そんな簡単なことはない。周囲の人間が望むとおりに、いくらでも女性と寝て子種を振りまけばいいが、それでは自分が生きた生き様が伝わったとは思えない。
 俺が俺であった証し、ゾロがゾロであった証し、それ以上に俺たちが俺たちでしかあり得なかったという、そんな証しがどうやったら残るのだろう。
 サンジは深い思考の淵の中でいつまでも心を漂わせていた。



 その夏は穏やかに過ぎ去った。
 初夏、ラティエスは二十八個の卵を産み、それらは孵化場の砂の上でゆっくりと固さを増した後、白い衣を纏った候補生たちが固唾をのんで見守る中、元気な竜の雛をきっちり二十八頭出現させたのである。
 孵化ノ儀では、例年のとおりすり鉢状になったひな段にびっしりと観客が詰めかけ、その底にあたる部分で、候補生たちだけが卵を取り囲む。卵の数のほぼ倍の数の候補生は、卵にヒビが入り、雛が自然によろめき出て来るたびに、今度こそ自分が選ばれるのではないかといった期待に胸を高鳴らせ、そしてその幸運を得た候補生は、まだ足元がおぼつかない雛に駆け寄りひたすら撫でて、どんなに自分がその生まれたての竜を愛しているか、賞賛と愛情を初めての思念だけの会話で繰り返すのであった。
 観客は皆一様に、新しく産まれた命そのものと、その命が選びとった生涯の繋がりと、二重の誕生に感動する。ここに新しく二十八頭の竜と、二十八人の竜騎士とが誕生した。

 そしてその孵化ノ儀に続く宴の席では、シリルが春から描きためていた食器が使われた。普段使いのぶ厚い木製やしろめの皿やマグではなく、薄く真っ白に焼かれた上品な大皿は、鮮やかな色遣いと見事な筆致で描かれた絵柄で縁取られ、豪勢な料理をさらに引き立てていた。壺や水差しの類は美しい山や湖のシリーズで統一され、皿は大きさ別に描かれている内容が異なっている。半分残念なことは、盛りつけられている部分に何が描かれているかは全て平らげてみないと見えないことだった。
 ここまで贅沢な食器は珍しい。各地の城砦の太守はこっそりと給仕のものに耳打ちし、この采配が誰の手によるものかを尋ねていた。
「シリル。聞いた?」
 マキノがようやく少し下腹が出てきたシリルをつかまえ、声に興奮の色を滲ませて言った。
「貴女の作品たち、大評判よ! 太守がたは誰の作か、ってもう五人も私に尋ねたの。そしてよければここの仕事が終わった後、自分のところで仕事してもらえないだろうか、って!」
「ほ、ほんとですか? まさかそんなに?」
 シリルは芯から嬉しそうに声を上げた。自分がこつこつと積み上げてきたものが、最高の舞台でお披露目され、それが高く評価を受けたのだ。嬉しくないわけがない。
(受け入れられた。私の作品が人の目を喜ばせ、そして次を望まれている)
 ここのところ、ようやく妊娠初期の辛い時期が終わり、宴席に間に合うようにとラストスパートをかけて作業していた。安定期に入りかけているとはいえ、少し無理したのが正直に身体に響いている。シリルは軽い貧血を覚えていた。孵化ノ儀の最中、アレックと並んでひな段の中央に居るサンジを遠目で見たときにも、軽いめまいに悩まされた。今は自室で静かに休んでいようとそっと宴席から抜け出してきたところだ。統領や洞母、城砦の太守や工舎の工師たちの身分の高い人たちの宴席とは別に、大厳洞ノ民の一般席は、最初はともかく、どんちゃん飲めや歌えの喧噪になってくる。シリルはそちらの席に居た。
 ようやく戻ってきた食欲にほっとして少しずつ消化のよさそうなものをつまみながら、仲のよい同じ年頃の女性たちと会話を楽しんでいたのだったが、周囲に葡萄酒が行き渡り、徐々に羽目を外す者が出てくるにつれ、シリルに強引に酒を勧めたり、果ては別の場所で更に楽しもうと誘ったりする輩が出てきた。基本気の優しいシリルはやんわりと断っていたのだが、くらりと目の前が暗くなったので、適当に言いつくろって辞去したところをマキノに掴まえられたのだった。
 マキノがシリルに告げた言葉は、具合の悪さなど一気に吹き飛ばした。
「本当に嬉しいです。私の絵って見たままのものを描いているだけだ、独創性がない、って工舎ではよく言われていたんですけど…」
「とんでもないわ。独創性はしっかりありますとも。貴女の目と手を通したことによって、普段見慣れている景色がこんなにも綺麗だったんだ、ということを認識させられたのよ。何も奇抜な意匠こそが独創性とだけいうわけではないわよ。工舎の人たちは、あまりにもあたりまえすぎるから、逆にその良さがわからないのね」
「…そうおっしゃっていただけると、本当に…」
「あなたは本当、その控えめな性格は美点でもあるけど、もう少し欲を出してみてもいいと思うわ。あのときはあなたの勢いにこの私がたじたじとなったくらいだのに」
 シリルはマキノの言葉に俯いて頬を紅く染めた。
「今にして思えば、自分でもすごく大胆だったと思います。でもおかげでここに来られてよかった。あのひとにも会えましたし」
「それはあなたの思いの強さが引き寄せたのよ。そしてどお? しっかりとモノにしたみたいじゃない! 身体の具合はどうなの? 少し痩せたわね」
「モノにしたなんて…そんな…」
 さらに俯いて完全に下を向いてしまう。マキノは首を傾げた。心にずっと秘めていた想い人と結ばれ、幸福の絶頂にいる筈なのに、どうしてこの娘は不安げな色を消せないのだろう。
「あのひとは、もともと私なんかには過ぎた人なんです。私はあのひとが傷ついて弱っているところにつけ込んだようなもの…いえ、本当にその通りですよね。でなければあれほどの人が私を向くはずがない。だけど、私はもし自分があの人の傷を癒せるのであればそうしてあげたかった…。そしてその結果、何にも優る宝をいただきました」
 手を腹部にあて、俯いていた顔をあげてマキノの目と合わせる。
「この子がいるだけで、もう思い残すことはありません」
「シリル…」
 マキノは言葉を呑んだ。どうしてこの娘はこんなにもあっさりと諦めるのだろう。
「あなた、諦めるのが早すぎるわ。もっと欲を出しなさい、って言ったばかりなのに。子供ができたらなおさらよ。子供の父親としてもっと要求すればいいじゃないの」
「そんなこと出来ません。あのひとは、今はただ傷を癒しているだけですもの。本当の心は私の上にはないわ。私にはわかります。意識してはいないでしょうけれど、あのひとは必要以上に私に触れようとしない。すごく優しいけれど、熱情はないんです。でもそれでもいいと望んだのは私ですから」
「だからそれで充分ってわけ? ほんと欲がなさすぎるわよ。それなら今のうちにあの子の心を自分に向けようとしてみたらどうなの。子供を盾にしたら情にほだされるということはあり得るわよ」
「そんな。そんなことはダメです! マキノさんはご自分の養い児だから却って近すぎておわかりにならないんだわ。あのひとの本質はとてもしなやかで強い。強い圧力にたわむことはあっても、必ずそれをはね返します。折れることはありません。だけど子供を盾にあの人の心を独占しようとしたら、あの人はきっと歪んでしまいます。それはあの人だけじゃなく、大厳洞全てに影響するわ。私ひとりのエゴのために、それはできません」
「シリル…あなたって子は…」
 マキノは細く華奢なこの絵付け師を、そっと抱きしめた。
(あなたこそ、しなやかで強いわ。もしかしたらサンジはその匂いを嗅ぎ取ってあなたを選んだのではないかしら。出会いは偶然でも、本当の本当に気に入らなかったらあなたを受け入れる筈がないもの)
「ごめんなさいね…あの朴念仁に変わって謝っておくわ。そしてありがとう。あなたがいてくれたおかげであの子が折れずにすんだわ」
「そうおっしゃっていただけて、嬉しいです」
 ようやくシリルはにっこりと微笑んだ。その頬に血の気がないことにマキノはようやく気づき、急いで彼女を自室へ送り、暖かい寝台に横たわったのを見届けると、療法師を呼んで診察を受けさせた。
「無理はしないことよ。身体も、気持ちもね」
 最後にそれだけ言って、マキノはシリルと別れた。



「身体の調子はどう? ゾロ」
「おう」
 ゾロはようやく足が動かせるようになってきた。しかし自分の足で立って歩くことはまだ出来ない。
 長く使っていなかった筋肉は落ち、見た目にも弱々しそうに感じられる。
 それでもゾロは膝の曲げ伸ばしや足首の関節を滑らかに動かせるよう、毎日毎日じれったくて歯ぎしりしたくなるような思いをしながら努力を重ねていた。もちろん普通に動く身体の他の部分も鍛錬を怠らない。首、右腕、腹筋、背筋。左腕はかなり楽に動かせるようになった。重いものを持つことは未だにできないが、軽いものなら持って運べるし、強くはないがものを握ることもできる。
 ロビンが訪ねてきたのはそんなリハビリ中のゾロだった。
「珍しいな、貴女がこんなところへやってくるなんて」
「ふふ、首位洞母の地位をサンジに譲ってからは仕事半分、趣味半分てところかしら。まあ、シャンクスの手綱を締めなくてはならないのは相変わらずだけど」
「シャンクスもその気になれば統領の座に返り咲くことは簡単にできるだろうけどな」
「その気になれば、ね。でも、いくら能力があっても『その気にならない』ところが彼の彼たるゆえんだわ」
「違いねえ」
 ふふ、とロビンはまた笑う。ゾロもまたにやりと相好を崩した。
「これ、歩行器?」
 ロビンはゾロが寄りかかっている平行に渡された二本の棒を指して尋ねた。
「そうだ。フランキーに頼んで作ってもらった。コイツに掴まりながら歩く訓練をしているんだが…。なかなか思うように足が定まらなくてな」
「でも動くようにはなったんでしょう。療法師はなんて?」
「俺の努力次第だろう、ってさ。ここまで回復したこと自体、奇跡だと。頭ン中はいじれねえが、自然治癒力でゆっくりと回復してきてるらしい。それで手足に命令がまた伝わるようになっているとか。だが、かなり長い間動かしてなかった分、動き方を手足のほうが忘れてるんだとよ」
「結局、詳しいことはわからないのね」
「…実を言うと、動くようにはなっても、完全に元どおりにはならないだろう、と言われている」
「何よその患者のやる気を削ぐような──」
「いや、いいんだ。むしろ正直に言ってくれたほうが有り難てえ。ま、完全に元どおりにならなくても限りなくその近くまでいってやるとは思ってるがな」
「強いのね」
「いや、ただの意地っぱりだ」
「ふふ、サンジのためもあるでしょう? 最近、あの子とはどうなってるの?」
「さあな。子供が生まれるらしいが」
「会っていないの?」
「たまに顔を見せるが、それほど頻繁でもねえ。アイツはアイツなりに考える時間が要るんだろう。べったり一緒に居るより、少し離れたほうがいいのさ、俺たちは」
「…それでアナタは平気なの?」
 真っ直ぐにゾロに問う。ゾロはほんの数瞬だけ躊躇った。そしてロビンを見て片頬をゆがめて意地の悪い笑みを浮かべると言った。
「…何て答えれば貴女は満足するんだろうな? 俺が平気だ、と言えば『不誠実だ』となじるか? それとも平気であるはずがない、と言えば『なら何故そう文句を言わない』と責めるか?」
 今度はロビンがぐっと言葉に詰まった。
「…そんなこと、思っていないわ」
「いいのさ。俺も俺が平気なのかどうかわからねえんだ。時折すごく胸が焦げるように熱くヤツを欲するときもあれば、凪ぎの海のように平穏に、ヤツの人並みの幸せを願っているときもある。だけどどちらにしろ、」
 ゾロが寄りかかっていた平行棒に両手を掛けぐいと力を込めて握る。
「──今の俺には何も言う資格はねえ」
 そろりそろりと右足を前に出し、すこしづつ体重を掛けてゆく。全ての体重を掛けないように腕で支えつつ、次は左足を前に出す。ゆっくりゆっくり、のろのろとゾロは『歩いた』。
「資格ってあなた。そんなことはないでしょう。あなた達がどんなに強く堅い絆で結ばれているのか、それは確かにすぐ傍にいる数名しか解らないでしょうけれど、そんな資格なんて言葉では計れないものでしょう」
 ロビンは常日頃纏っている冷静な顔を捨てて言った。
「あなたがどんなに彼を欲しているか、自分では解っていないの? 彼だって同様な筈よ。真の大厳洞ノ伴侶なら──」
「ストップ。それ以上言うなら、ここから出て行ってくれ。言っただろう? 俺たちは今は離れていたほうがいいんだ」
「でも、もしも、もしもよ、それでそのまま離れたままになってしまったらどうするの?」
「それはその時──俺はそれだけの男だったってことだ。だけどそうなるつもりは毛頭ねえ」
 ゾロは慎重にまた一歩歩く。言うことをきかない足は体重をかけると耐えられずに萎えてしまいそうになる。それをゆっくりすこしづつ負荷を掛けてゆき、徐々に耐久荷重を増やしていき、最後にはゾロの全体重を支えられるようにする──のが目的だが、まだそこに到達するには当分時間と忍耐が必要のようだった。
 かくり、と膝が折れ、ゾロの身体が重力に引かれてずり落ちる。それを平行棒にしがみつくようにしてなんとか転ぶことを避けた。心ない者が見ればその様子をぶざま、と評したかもしれない。しかしロビンは何も言わずゾロのリハビリを見続け、平行棒の端に行き着くまで物思いに沈んだ目でその様子を見守った。

 

  

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ここで前編が終了です。一息ついてゆっくりお休みください。