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竜の血脈(26)




「なあゾロ」
「おう?」
「お前、あの怪我したときの…」
 言いかけてサンジは口を噤んだ。ゾロは椅子に腰掛けたまま、錘(おもり)のついた棒を握りこんで、腕の力でそれを上下させるというトレーニングをしている。
「きゅうじゅう、はち──きゅうじゅう、く──ひゃく──よし」
 右腕が終わり、左腕に持ち替える。
「いち───に───さん───し───」
「同じ重さで大丈夫なのかよ」
 サンジが気が付いて言った。しかしゾロはそれには応えず、黙々と同じ動作を繰り返す。
 はあ、とサンジは呆れたように軽く息をついた。しょうがねえか。元々コイツは肉体酷使するの好きだったもんなあ…。
「腕の力が少し必要になるんだ」
 サンジがぼうっと今朝がた見た壁画のことを考えていたとき、ゾロがぽつりと漏らした。
「え?」
「まだちょいと脚の力が弱いからな。フランキーが騎乗帯を少しいじって、竜の背によじ登るときに脚が利かない分を腕で引き上げられるようにしてくれるってよ」
「へえぇ…」
 サンジは心底感心したが、あがったのは間抜けな声だった。するとゾロは本当にバシリスに乗ることができるようになるのだ。長かったが、ゾロが受けた傷の深刻さを考えれば充分奇跡と言えるだろう。
「それと、さっきアレックから話があった。竜児ノ騎士ノ長ノ補佐を任命されたよ」
 淡々と告げられた言葉に、今度はサンジの声が不機嫌に沈む。
「へえ…」
 ゾロはサンジの纏(まと)う空気がすっと冷えたのを察して、くいと振り向き、言った。
「おっと、そんな顔するなよ。これは俺の方から『お願い』したんだからな。動けるようになったから、仕事をくれって」
 サンジの眉間の皺はさらに深くなった。むすう、と口さえ尖ってくる。ゾロはふ、と柔らかに笑うと、錘を下ろし、サンジの頬にそっと指で触れた。
「お前、ホント、怒るとアヒルみてえな。昔っから変わんねえ」
「ばかやろ。そうやって誤魔化すんじゃねえ。俺は今だって面白くねえんだ。お前のようなヤツが下っぱ仕事をするなんて」
「サンジ。仕事に上下なんてないぞ。お前そういう考え方してたらいつか足下すくわれるぞ。各自ができることをやる、それでいいじゃねえか。お前は能力があるから洞母という役割がある。俺は今は竜騎士として能力が足りてねえ。それだけだ」
「………」
 わかっている。サンジだって充分に頭の中では理解しているのだが、ただ感情が拒否するのだ。
「それに、それを言うのと同時に、アレックに宣戦布告してきたからな。後には引けねえ」
「宣戦布告ってそれどういう…?」
 それにはゾロは鼻で笑っただけで答えない。サンジの眉間の皺が別の種類に変わったのを確認して、ゾロは伸ばした手でサンジの肩を押し、そのまま身体ごとのしかかった。
「お前にも宣戦布告してやろうか」
 にやにやと笑うゾロに、サンジは抗議の声を上げかけたが、結局簡単に降参した。



 ゾロが久しぶりにバシリスに乗って飛ぶということは、一部の親しい人間のみだけの情報として、慎重に扱われた。
 決行は収穫祭の日。大厳洞中がティレクを筆頭としていろいろな城砦の収穫祭に向かい、ほぼカラッポとなる日である。
「大丈夫か」
「おお」
 久々に見るゾロの騎乗衣と騎乗帽の姿に、サンジは胸が熱くなった。実はまだゾロは杖を手放せない状態で、今も杖の音をさせながら歩いている。問題はバシリスに跨(またが)ったときに脚で締め付ける力が弱いことで、そのため、フランキーは落下防止に特殊な鐙(あぶみ)を用意していた。
 そのフランキーは緊張した面持ちで脇に控えていた。思えば彼はほとんどゾロが飛んでいるのを見たことがない。新任でハイリーチェスにやってきた直後にゾロの事故が起こったからであるが、だからこそ、自分が用意した器具が合わなかったらと考えて緊張が解けないでいた。
「大丈夫さ、ゾロだからな」
 ぽんとフランキーの肩を叩いて声を掛けたのはシャンクスだった。彼もまた収穫祭へは行くそぶりだけで上手く行方をくらませてゾロの飛行に立ち会っていた。
 サンジは自分もまた騎乗衣と騎乗帽を身につけていた。それこそ何事か不測の事態が起こったときにラティエスで併走飛行をしていれば手助けすることができるのではないかと思ったのであるが、ゾロはそのサンジの姿を見て、すぐに
「必要ねえ」と言い切った。
 何かを言おうと口を開いたサンジに、
「お前は俺が信じられねえのか? まだ?」といたって冷静な声でゾロが先制する。
 サンジは開きかけた口をあいまいにもごもごと動かしつつゾロの顔を見ると、そこにはとても澄んだ双眸がまっすぐにサンジを見ていた。
「悪りぃ。こんなん、必要なかったな」
 サンジは言うと、騎乗帽をむしり取った。騎乗衣もボタンを外し前を開けてくつろいだ格好になる。
(今日はゾロがようやく好きなように飛ぶ日だ。俺が影を差すわけにいかねえよな)
 とそっと反省すると、
(ソウソウ)
 とバシリスとラティエスが声をそろえてサンジに言った。さらにバシリスは、
(安心シテ見テイテヨ。ぞろヲ落トスナンテコトハ絶対シナイカラ)
 とサンジに付け加えた。
 ゾロはこれもまたフランキーの作である『引き上げ帯』を使って、蹴り上げる力が不足しているところを腕力で補ってバシリスの背によじ登った。人の手で押し上げてもらうという方法は端から考慮の内にない。あくまでも自力で飛ぶ、とただそれを目標にしている。
 背に乗ってから、一呼吸置いて集まった人々の顔を見下ろした。毎日何の感慨もなくあたりまえのように見ていたものたち──バシリスの背の畝(うね)や、楔(くさび)形の後頭部や肩、そこから伸びる筋肉と翼、それらをまとめて視界に入れ、世界を見下ろす感覚は本当に久しぶりのものだった。
(ようやく)
 ゾロはほんの瞬間その感慨を味わった後、すぐにバシリスに飛び立つように指示をした。
 ぶわっと風が舞い上がる。バシリスの体躯は青銅竜の中でも飛び抜けて大きい。それが両の翼を大きく拡げてたわませると、皮膜が大気をいっぱいに掴んで次の瞬間力強く叩きつけた。
 逞しい脚が地面を蹴って、あっという間に高みへ駆け上がる。立ち会った者たちはどんどん小さくなる姿を追って、首が急角度で上を向いて行った。
「無茶をしなければいいんだけど…」
 ぽつりとマキノが漏らした。養い児と言っても自分の子として育てた年月があり、どうしても心配の方が先に出てしまう。
「そりゃ無茶はするだろうよ。なんたって久しぶりの飛翔だしねえ」
 明るく言い放ったのはシャンクス。にやにやしながら目だけは空を駆ける青銅色の染みから離さない。逆光になると片手をかざして指の隙間から見続けた。
「どうだ、サンジ」
 同じように手をかざし、目を細めて見ているサンジに声を掛けた。
 サンジは答えない。なぜならサンジの心はバシリスに融け込み、ゾロと一緒になって空を駆けていたからだ。
(ナンテ、ナンテ素晴ラシイ…! 僕タチマタ、一緒ニ空ヲ飛ンデイル…!)
 バシリスの歓喜の声に、ゾロは優しく応える。
(ああ、そうだ。随分待たせたよな。けど、俺たちぁ離れねえ、離れられねえ。生きている限りは!)
 バシリスの歓喜の声はファンファーレのようにサンジにも響き、ゾロの声と共鳴して胸の奥を打った。
 サンジはかざしているのとは別の手で胸の辺りをぎゅっと掴んだ。──心臓が喜びで破裂しそうだ。お前の耐えに耐えた月日が今ようやく霧散して、その間堅く守り抜いた種が芽吹いて花を咲かせているのか──。
 ゾロとバシリスはそれから、久しぶりとは思えないほど高難度の技をいくつかやってのけた。マキノはますます顔を青ざめさせ、シャンクスは更ににやにや笑いを大きくした。
 そして青銅竜とその騎士は最後にぱっと姿を消し、間隙へ入り込んだ。
「あの子ったら…!」
 マキノが悲鳴を上げる。すでにゾロがバシリスを感合してマキノの元を離れてから十余巡年ほども経っているし、統領となってからはマキノも遠慮して他人の前ではそれなりに改まった態度と言葉遣いをしていたが、そんなものはマキノの中で一瞬間で飛び越してただの養い児に戻ってしまったようだ。
「大丈夫だよ、マキノさん」
 サンジがそっと肩を抱き寄せながら声を掛けた。
「俺がちゃんと彼らを掴まえてる…そら、今帰ってくるよ。ほんのちょっとだけ試しに跳んだだけだよ」
 サンジが言うやいなや、彼らは消えたと同じ箇所にぱっと出現した。マキノはほう、と安堵の息をついた。
 フランキーは黙って一部始終を見ていたが、その瞬間止めていた息をふーっと吐き出し、「やれやれ」と呟いたところで自分が呼吸をするのも忘れていたことに気づく。
(あれがゾロ統領か。滅多に人を褒(ほ)めないアイスバーグ師があれこれ言うわけだ)
 ぐいと手の甲で額に流れた冷や汗をぬぐい、その下で笑みを浮かべた。

 放っておいたらいつまでも飛び続けかねない、といいかげん首の後が痛くなってきた見学者たちの意見を代表して、サンジがバシリスを通じて呼びかけたのが小一時間ほど後のことだった。
(おら。遊んでいるのもいい加減にしろ。ぼやぼやしてっと収穫祭から皆戻ってくるぞ)
 バシリスは、いかにもしぶしぶ、といった風に降りてきた。鉢ノ広場に降り立ったバシリスを取り囲み、皆が注視している中ゾロがまたよじ登るのと逆の方策で降りてきた。
 よろめく脚をぐいと踏みしめ、片手を騎乗帯に掛けたまま集まった人々の顔を見渡す。
 その顔は興奮のため紅潮していたが、視線は挑戦者のそれだった。その瞬間、
「おめでとう…!」
 誰からともなく祝福の言葉と拍手がわき起こる。その場に立ち会った者はごく限られた少数だったが、誰もが心からゾロの復活を喜んでいた。
「ゾロ…、やったな!」
 サンジが進み出てがっしとゾロの首をホールドする。
「わ、ばかやろっ!」
 バランスを崩して倒れ掛けたところをすかさず後からフランキーが支え、さりげなく杖を握らせた。
「ほらほら、サンジはゾロとバシリスを連れて後の面倒をみてやれ。他の者は解散。そろそろお出かけ組が帰ってくる時間だぞ。内緒にしておきたいなら、さっさと動くことだ」
 シャンクスの号令一下、皆わらわらと動き出す。バシリスに先へ岩室へ戻っているように告げたゾロは、改めてサンジと顔を見合わせた。
 ゴーグルの痕が目の周囲に線を作っていて、短く刈った髪の毛も汗に濡れている。それでもなお、サンジの目にはゾロは光り輝いて見えた。
「ゾロ…。お前って…」
 スゲエ、と言いかけた感激の言葉をゾロが遮(さえぎ)った。
「まだだ。これがようやくスタートラインだ。見てろ、駆け上がってやる」
 いかにも楽しそうに笑う目は獲物を追う獣のように不敵な光を帯びていた。


 

  

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